空間の海、あるいは、器   
兵庫県立美術館学芸員
                     出原 均
9年前に広島市立大学の芸術学部に赴任してから鰕澤達夫氏の発表した作品で、私が観たのはわずかに5点。《方法としてのカフェマッキナ》《狂気の海》《魂の器》、そして《白い布》のⅠとⅡ。これに、毎年大学で開かれる教員展への出品作を加えると、ほぼ発表作のすべてである。教員展では試作的なものを出品しているというし、《白い布》も、現在、準備中の巨大な作品の一部である。したがって、完成作は多くない。しかし、寡作というのではない。そうではなく、ひとつひとつの作品が様々な要素の組み合わせからなる巨大な構築物なのであって、制作に膨大な時間と労力を要するからである。それは、絵画や彫刻といった単体物と建築全体との間にあるものといえる。あるいは、ひとつの総合芸術と読んでもよいのかもしれない。旧日本銀行広島支店の建築が広島市に永久貸与され、そのお披露目としての展覧会で中心を占めたのが彼の作品《魂の器》であった。これもいくつかの構築物から成っており、設置場所もホールやエントランス、小部屋などに広がっていた。その中心は、ホールに設置された東屋のような造作物である。建物の中に別の建物があるといえばよいだろうか。その表面はバーナーかなにかで焼かれ、白いパネルには無数の穴があき、いわば断片化し、床には液体が敷かれ、廃屋のようである。こう記せば、簡素なものと思われるかもしれないが、けっしてそういうわびさびのイメージにおさまるわけではない。その無数の穴といい、屋根から下りる夥しい触手状のものといい、さらには、素材の多様性、この構造物から周囲の小品への広がりも含めて、むしろ、増殖という言葉が思い浮かぶ。印象は複合的である。歓者は、いわば庭園のように空間を歩みながら、ひとつひとつの細部を観、確認し、一方では全体をとらえようとし、それらの折り合いをつけたり、ズレをズレのままにしつつ、最終的には総合的な(イメージ)を構築するにいたるだろう。
鰕澤氏の作品は、基本的にはインスタレーション・アートの部類に入る。「設営芸術」とか「空間芸術」とか訳されるジャンルで、事物をある空間に配置し、その場全体を作品化したものである。インスタレーションの語は、もともと即物的なニュアンスを持っていた。この語が普及したアメリカの、特に、60年代における物そのものの美学に基づいており(これを表すのに「文字通り」という意味の「リテラル」の語が使われた)、観客と同じ時空にあること、つまり、「いま、ここ」にあることが重視されたのである。鰕澤氏の作品は、おそらく彼と同世代の作品にもしばしば見受けられることだが、こうした古典的なインスタレーションの概念にぴったり一致するわけではない。というのも、彼の作品は、確かに具体的な物として存在するとはいえ、その物はしばしばなにかのいわば媒体でもあり、「いま、ここ」に完全に投錨しないことが彼の芸術の特徴である。それは、彼が画家としての資質を強く有する点に帰すことができるかもしれない。というのも、画家は本来、眼前の平面空間を大なり小なり壊し、それとは別の空間をあらたに想像しようとするタイプ、極端にいえば、幻視の芸術家だからである。こうしたイリュージョン(「幻影」と訳される。2次元の空間に3次元の世界を作り出すこと)を放棄し。物の「実在感」に立脚しながらも、やはり、絵画と同じように、そこに別の世界、別のイメージを作り出そうとするのである。一般に、画家は、その眼で物と空間の両方をとらえるので、空間芸術であるインスタレーション・アートの制作者として適しているとはよくいわれることである。その一方で、既存の物やイメージに満足せず、あらたに別のイメージを構築するのも、画家の特性である。そに意味で、彼のインスタレーションには、二重に画家としての資質が強く働いているといえるのではないだろうか。
このことを理解するうえでも、鰕澤氏の作品展開を見ておこう。彼が広島に赴任する前に発表してきた《方法としてのカフェマッキナ》のシリーズでは、題名どおり、コーヒー器具を描いた分厚い平面をいくつも作り、それらを会場に様々に組み合わせながら配置していた。コーヒー器具という実際の物を平面状に記号化し(硬質な表面と相まって平面性が強調される)、さらにその平面を3次元の空間に展開させたのである。立体から平面、平面から立体へという流れである。この頃、つまり、80年代後半以降、絵画や彫刻といった従来的な作品を空間に展開するタイプのインスタレーションがしばしば行われたが、鰕澤氏はそれを徹底したといえる。平面と立体、それぞれの形式をあわらにしつつ、その関係の可能性も探り出そうとしたのだろう。コーヒー器具の図像は、平面の枠に収まりながらも、空間上で互いに呼応するのである。
彼が広島に赴任し、「歴史的建造物と芸術の共振」展の題1回展(広島大学学校教育学部旧図書館)で発表した同じ題名の作品には、しかし、あきらかに変化が見られた。それは、扇風のようなジグザグの面を上下に互い違いに3層重ねた構造をとるものである。日本の屏風は西洋的な意味で完全な平面とはいえない空間の厚みをもつが、それを強調するかのようである。だからこそ、逆説的に、これは平面が問題なのだ。しかし、コーヒー器具の図像がほとんど消え、描写は塗りに近い。また、コーヒー器具とともに描かれていた影としての小さな点は、穴に変わり、現実の光を作品の中に導き入れている。したがって、絵画のイリュージョン(幻影)が後退し、より現実の空間としての平面を問題にしたというべきだろう。この作品は、最終的には、第2回展(旧宇品陸軍糧秣支廠の倉庫)において完成する。L字形のパネルか、より単純な一枚のパネルを基本単位として、全体は3種類の構造物からなる。つまり、第1回展に出品したものに加え、空間を完全に囲い込む立体作品と、広がる床面をゆるやかに分節する(開かれている)パネル群である。それらはそれぞれ空間の取り方を変えながら、同じ単位からなるゆえにまとまりをもち、全体としてひとつの構造、一つのヒエラルキーのある空間を構築していた。都市のモデルのように私には見えた。
宮島近くのある物流倉庫を会場とした第3回に発表した《狂気の海》も同様にいくつかの構築物からなっていた。しかし、今回はその形態がすべて異なる。ひとつひとつの独立性が保たれながら、ゆるやかな配置によって空間が占領されているのである。とくに《結界》と呼ばれる横に長い構築物を境にして明るい領域と暗い領域に分かれ、その開いた穴から手前にはいる光は水面から差し込む光のように見える。題名のとおり、水中世界である。個々の形態が異なる事もあって、前回よりもイメージ性が強くなり、「いま、ここ」から一層離れたように感じられた。この作品は、《方法としてのカフェマッキナ》でスタートした無数の穴の表現を実験的な探求に高めており、その点が特に私の興味をひいた。穴にひもやガラスを通したり、穴の開いた面を層状に重ねるといったことである。これによって造形言語が拡大したことは間違いない。穴にひもを通す事で、形態が多様化し、イメージが豊かになるが、それらは透過するもの(たとえば、光や空気)を物体化、顕在化したということもできる。だから、後の《魂の器》での焼きも含め、絵画的なものから物的なものが強まる過程であることも確かだろう。
このように見ていくと、鰕澤氏の作品は物としての性格が強くなるのと平行して、これまでの画面の中に封印されていたイメージが、作品全体において実現していったことが理解される。ものとしての性格に、バロック的ともいうべき豊穣なイメージが絡み合うのである。私は、このイメージというかビジョンというか、それを実現させるためにも、細部の過剰さがあるのだと思う。広島以前では、描く事の過剰さは、平面の中にイメージをおさめるという形式面での抑制とバランスをとっていたが、近年、このバランスが異なる文脈の中に置かれているといえばようだろうか。物質や物体の想像的な変換が十分なされ、それらの相乗作用によって全体が別の世界にメタモルフォーゼする(もちろん、こうした細部は、作家にとっては手作業としての悦楽があるのは確かだ)。さらに、この過剰さとバランスを保つのが、作品そのものの構築性である。例外は《白い布》である。作品は場所に沿うことを基本とするが、少し弱さを感じた。過剰な細部を受けとめる全体の構築性は、彼に欠かせない。いや、巨大なビジョンを具体化しようとする意思こそがまず彼の中にあるというべきか。このようにして、物質—イメージ—細部—構築という系は、ひとつの円環をなして、彼の現在の作品に貫徹していると私は考える。この系をとらえることで、彼の芸術の豊穣さを十分味わう事が出来るのではないだろうか。
このような彼の芸術に対しては、細部から全体までのいくつかのレベルをじっくりと味わうことだ。もともと絵画などの単体物にもこうした層があるのだが、インスタレーションにおいては、それが顕著になっているのである。それらを統合した像(イメージ)が、最終的に私たちをどの地点にまで連れていくのか確認しよう。そこに彼の芸術の真骨頂がある。

私はここでひとつの読み取り方を呈示したにすぎない。それも、大枠で。ただ、これをとらえることが彼の芸術を理解する上で最も肝要だと思ったのである。論ずるべき事は多く残されている。彼のイタリア留学について。かの地と日本との落差が彼の芸術にどのような課題を投げかけているのか。素材の選択について。ベニヤ板というチープな素材を用いることの意味。それがどのように変換されているのか。あるいは、教育者として。しかし、紙幅はつきた。それらは別の機会に譲りたい。

昨年の12月に広島県北部にある、彼の住居に併設してあるアトリエに伺った。冒頭で少し触れたように、アトリエで制作途中の縦4メートル、横と幅が5メートルの巨大なインスタレーション作品を拝見した。これが16個並んで完成だという。この制作にも構想や時間、労力がたっぷり必要となるだろう。これを展示できる場所を見つけるのも容易ではない。しかし、いつの日かそれは実現するにちがいない。それまでじっくり待とう。彼のように、ひとつの作品に時間をかけて構築していくあり方もあるのだと目を開かされた。作品の大きさと同じように、彼の時間の流れもゆったりとしているのかもしれない。無論、制作の労力は大きいだろうが、それも含めて、作家として一つの幸福な生き方だとうらやましく思った。